「車輪の下」ヘルマン・ヘッセ

ドイツの片田舎で神童と言われ育った主人公ハンスは全国のエリートの集まる神学校への合格を二番という席次で掴み、周囲の期待を背負い進学する。その中で多くの挫折を味わい、神経症を患い退学し敗北感とともに帰郷する。しかし、故郷に彼を理解しようとする者はおらず、機械工として働き始めた矢先彼は酒のために誤って河に落ちてしまい、あっけなくこの世を去るーー

 

 

ヘッセをはじめとしてトマスマンらのドイツ文学の金字塔と言われるような文豪の長編小説に度々見られる特徴として、没落しつつある名家にまるで最後の煌めきのように生まれた神童が主人公として描かれることが多い。加えて、皮肉にもその神童はそれで以って生計を立て万人に認められるような才覚を持った者としては描かれない。歳を重ねるにつれ、自分の能力の限界に直面し真の一流にもなれず、俗人にもなり下がれず、耐え難い孤独の中でその才能を腐らせていくそんな姿を読者は垣間見ることとなる。

 

さて、今回の主人公ハンスについて考察していきたいと思う。

彼は生来自然を愛する純朴な少年であった。他の同輩と同じように自然豊かなドイツの片田舎で河原で昼寝をし、魚釣りを楽しみ、兎小屋を作ることが好きないわば“普通の”少年であった。しかし、受験勉強をきっかけに父親にそれらを禁止されラテン語の文法だの、代数だの、ヘブライ語による旧約聖書の精読だのそんなもので日常が埋まってゆく。

 

受験勉強を終え、神学校への入学までの僅かな余暇を与えられ以前の自然と戯れた日々に戻ろうとするもののハンスには「真の学問への門戸を叩く」ことに比べればそれらは取るに足らなく見え「自らそれらの遊びを止めてしまった」のである。それをハンスの周囲の大人達は「少年の成長」として誇らしげに見つめるのである。

 

しかし、神学校にて目覚めた自我と周囲の期待との狭間でハンスの細い四肢は押しつぶされてしまい、神経症を患ってしまう。彼は、決して非凡な英雄ではなく、単にやや秀才肌のかよわい少年であるに過ぎなかったのだ。

 

「あれほどの苦しみも、勉強も汗も、あれほど身をうちこんだささやかな喜びも、あの誇りも功名心も、希望にはずんだ夢想も、なにもかもむだになり、結局、すべての仲間より遅れ、みんなから笑われながら、いまごろいちばんのびりの弟子になって仕事場にはいるというのが、けりだった」。

ハンスは挫折とともに帰郷する。

 

その中で機械工という職につき、神学校や今までの生活では決して知ることのなかった「労働の賛歌」や「職人仕事の美しさと誇り」を知る。

 

しかし、その中でナンセンス的に訪れる「死」。おぼろげな観念と追憶、羞恥と自責というにごった流れの中に飲み込まれ、それはあまりにもあっけなく虚しいものであった。

 

ハンスの葬式にて古くから親交のあった者は言う。

「みんなでやったんだ、あの子をこんなハメに落としたのは、わたしたちだ・・」

 

ここに、「車輪の下というタイトルの意味が浮かび上がってくる。すなわち周囲の期待という巨大な車輪の下敷きになり、無惨にも押しつぶされてしまったハンス。

 

特に印象的だったのが文中、第五章はじめの作者の嘆きともとれる数行である。ヘッセは読者に問いかける。

 

「…だれひとりとして、このやつれた童心の哀れな微笑のうらに、沈みかけた魂が悩んでいるのが、そして溺れようとしながら、おびえて、絶望的にあたりを見回しているのが、見えなかった。学校と父親と二三の教師達の野蛮な名誉心とがこの傷付きやすい人間をこんなことにしてしまったのだ、ということを誰もゆめにも考えなかった。…」

「…なぜ彼はもっとも感じやすい、そしてもっとも危険な少年期に、毎晩、深更まで勉強しなければならなかったのか。なぜみんなはかれの飼っていたうさぎを取り上げたのか。…かれに釣りやぶらぶら歩きを禁じたのか。性根を枯らすような功名心という空虚な、卑俗な理想を彼の胸に植えつけたのか。」

 

 

「過度に駆り立てられた子馬は、これでもう道ばたに倒れてしまって、これ以上使いものにならなくなったのである。

 

 

私達も巨大な車輪の一部となり、誰かを下敷きにしてはいないだろうか?

真の教育とはなんなのか、人生を賭けて追うものは何であるべきなのか?

 

今年で本作が執筆され110年の月日が流れた。

しかし、時代を越えて私達は至る所でこの哀れな傷付きやすい少年を垣間見ることができる。

ある時はニュースの中に、友人の中に、そして自分の中に。

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