「脂肪の塊」モーパッサン

私がこの小説に出会ったのは高校の世界史の授業であった。世界各地域の文学作品を時代ごとに作者名と共に頭に叩き込むことにうんざりしている最中、この本のタイトルは強烈な印象を私の胸に残した。当時、一体どんな物語なのか想像を巡らしたものの実際に本を手に取るには至らなかった。

時は流れ、先日古本屋でこの「脂肪の塊」を見つけ四年の空白を越えて内容に触れるに至った。


舞台は普仏戦争の最中のフランス。プロシャ軍の占領地から脱出を目論んだ馬車に居合わせたブルジョアたちと一人の娼婦。その娼婦、あだ名を「ブール・ド・シェイフ」(脂肪の塊)という。逃亡の最中、彼女を見初めた敵将校はブール・ド・シェイフが自分と一夜を共にするまで一行の逃亡を認めない、という要求を受ける。愛国心が強く頑なに要求を断る彼女にブルジョアたちは態度をガラリと変え彼女に説得を試みる。――

 

モーパッサンの処女作として名高いこの「脂肪の塊」は一夜にして彼を一流文豪にまで押し上げた。彼のまるで突き放すようなペシミズムは本作から一貫して彼の文学作品の随所に垣間見ることができる。正義や道理の通じない人間の理不尽な行動や、ちょっとした虚栄心やエゴイズムが招く運命のもつれを彼は淡々と第三者的なナレーションを以って語る。彼は一歩引いた目線からウィットにとんだ知的なユーモアセンスを用いて哀しいほどに滑稽な人間達を描く。私自身、モーパッサンの著作に大体30作品以上触れてきたが、彼の描く物語で一般的にいう「幸福な結末」といえるものに出会ったことがほとんどない。(トーマス・ハーディの執筆タッチに共通したものを感じるのは私だけだろうか?)

 

さて、本作の考察に移りたいと思う。

作者がブルジョアの語る愛国心や思想について如何に信頼を置かず、冷静に観察しているかが伺える。アメリカの経済学者であるジョン・K・ガルブレイスが「不確実性の時代」の植民化の思想の章にて語った一節に次のようなものがある。

 

「…植民地主義を正当化した思想は、決して正直であったとは言えない。…多くの事柄について、行動の背後にある理由は隠されたままのほうがよいということを、人々は承知している。神話があったほうが、良心は守られやすいのだ。そしてまた、他人を説得するためには、まず何よりも先に自分自身を説得しなければならない。神話は、戦争に関わるところでは特に重要であった。」

「人間は、自らの命を落とすためには、かなり高尚な動機を持つ必要がある。富や権力を、あるいは誰か他人の特権を守ったり高めたりする…そのために死ぬというのでは、美化のしようがない。」

「…植民主義の場合も同様である。そのための本当の動機を述べたとすれば、それはあまりに粗野で利己的で不愉快なものとなるだろう。…そのため、植民化を推進した人々は大抵の場合、-単なる経済的な理由でなく-自分たちの何か深遠な倫理観、精神的、社会的、あるいは政治的な価値の担い手としての役割を自認してきた。」

 

私は、本作を読みこの一節が想起された。

すなわち、ガルブレイスの理論を交えて話すならば、ブール・ド・シェイフがこの敵将校と一夜を共にするには、それ相応の高尚な思想が必要でありブルジョアたちは(なんとここには聖職者も混ざっている!)今までサロンなどで磨いてきた雄弁さと教養を活用して躍起になって彼女を説き伏せるのである。

ブール・ド・シェイフにあてつけた、聖職者と貴婦人のやりとりの一部を引用する。

 

「そう致しますと、あなた方聖職者様のお考えでは、神様はどんな手段でもお受け入れになって、動機さえ清らかであればお赦し下さるのですね?」

「誰がそれを疑えましょう!それだけでは非難される行いも、それを行わせた考えの如何によっては、しばしば賞賛に値するものとなります。」

 

この文言だけを見ると大層立派で上品な理論であるが、一歩踏み込めばそれは早く占領地から逃げ出したいブルジョアが自分の利益のために、ブール・ド・シェイフに代わって敵将校と寝るという「美化の仕様のない」醜い事実を「神」や「清らかさ」などにより覆い隠したに過ぎない。(ちなみにフランスでは敵軍との情事はご法度であり、二次大戦終結時にドイツ人と関係のあったフランス人女性は売国奴として丸坊主にされ、暴力を受けながら、鎖をつけて町中を練り歩かされた。)

こういった、支配者層の美しい言葉の裏にある人間的な醜い感情を、陳腐なあるいは下品な表現を一切することなく描き上げたモーパッサンの手腕には脱帽せざるを得ない。

 

これらの説得の結果、ブール・ド・シェイフは敵将校と一夜を共にし、馬車は出発する。しかし、同乗したブルジョアたちは彼女に軽蔑的な眼差しを送り、思わず彼女が悔し泣きをするところでストーリーは終わる。

 

ここまで読むと、痛烈なブルジョア批判に過ぎない小説となってしまうのだが、私が先ほどガルブレイスを引用したことには二つの意図がある。

まず一つは、すなわち「死」と「理論」の関係性の暗示である。

私は、この小説はただのブルジョア批判ではなく「理論」は「人を殺す」ことができる、というモーパッサンのテーゼのように感じるのである。

「理論」が「人を殺す」場面として、現在のイスラム教過激派のテロ、社会主義国内で行われた多くの残虐行為、世界史に残る血なまぐさい戦争など枚挙に暇がない。

しかし、それだけが理論が人を殺す瞬間ではないのではないか。

今回のストーリーでは、確かにブール・ド・シェイフは命を落としたわけでもなく、他に血なまぐさい事件も起こっていない。

しかしながら、ブルジョアたちの作り上げた表面上に崇高な「理論」こそがブール・ド・シェイフの高潔な愛国心と親切心を利用し文字通り「殺して」しまったのである。

これは、企業に働くサラリーマンをはじめとして現在の社会にも言える場面は多々あるのではないだろうか。

第二に、ここから類推するにこの小説は反戦小説なのではないか、という事である。

「理論」を信じ、身を捧げ、裏切られた一人の娼婦の物語の裏の意図に、政治家の「理論」を信じ、命を捧げる衆愚的な「大衆」の無知とその戦争を作り上げるシステム自体を皮肉的に描いているのではないだろうか。

こう類推する理由として、モーパッサンは最後の場面でブール・ド・シェイフへの憐れみや彼女の行いの正当性などを一切言及していない。ただ、冷淡な態度をとるブルジョアたちと涙を流す娼婦を淡々と描写するのみであった。加えて、モーパッサンは生涯を通して多くの反戦小説を残している。

 

私自身、この「理論」に踊らされている「大衆」になってはいないか、自省の念に駆られざるを得なかった。

「はじめに言葉ありき」

この言葉の妙を改めて実感する一作であった。

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