「バビロニアのくじ」J.L.ボルヘス (「伝奇集」より)


人生を語る上で、偶然というものは非常に大きな役割を担っている。私たちは生誕から死まで、確実性を持ち保障されることは何一つない。生まれた瞬間から、国籍、性別、容姿、貧富の差などをはじめとする努力や人智を超えた偶然の格差の元で生まれ、その後も終わりのない偶然の繰り返しの中で我々は一生を終える。この偶然という自然的な性質はカオス的な宇宙の性質の一つの表層であり、そこにひとつの我々と宇宙を繋ぐ物理学的な性質を越えた世界の様相を垣間見ることとなる。

こうして考えてみると、我々の積み上げてきた人生は「偶然、“運がよかった(ないし悪かった)”」の一言で片づけられてしまうこととなる。だからこそ人類はその偶然性からの脱却すべく、偶然に満ちた世界への対抗手段として数千年かけて哲学を通して「普遍性」の探究が熱心に行われたと考えることもできるかもしれない。しかし、人類というものは興味深いことに、この動きと真逆の動きである「さらなる偶然性の強化」というものに対しても古くから魅力を感じていることも事実である。その代表的なものの一つとして、「くじ」を挙げることができる。この起源は紀元前にまで遡ることができる。 “自ら選択して” 偶然に自らの運命を委ねるという行為は矛盾性を孕むように思われるが、本質的には世界の性質としてはなんとも理にかなっているのかもしれない。



今回の著書、「バビロニアのくじ」はタイトルから類推されるようにバビロニアにおける「くじ引き」の誕生からそのくじが国の在り方を支配するに至るまでのプロセスを伝承的に語っているのが本作である。念のために触れておくがこのプロセスは史実に基づいて描かれているわけではない。「事実のメカニズムには興味がない」という著者ボルヘスは文学の使命を史実ではなく美的事実の発見にあるとしている。この考えこそが彼の文体に幻想性を与えたに違いない。



 では、早速「バビロニアのくじ」の内容に触れていきたい。その昔、バビロニアにてくじは庶民の遊びであった。しかしそのくじには、外れくじがなく「精神的価値を欠いていた」。このくじの失敗からくじ引きに改革が行われ、ある金額を手に入れるか、しばしば相当の額にのぼる罰金を払うか、という運試しへと様相を変えた。この改革は大衆を「くじ引き」に熱中させ、くじに加わらない者とくじに外れた者は軽蔑を受けることとなる。そしていつからか、このくじ引きを取り仕切る「講社」という存在が現れ、世俗的な権力と共に宗教的な権力を持つこととなる。大衆は、このくじによって勝者と敗者の二つに割れくじ引きには一種の神聖な意味と共に世俗的支配をも強めてゆく。その中で、ある一つの推論がくじの試行を無限回繰り返す改革へと誘うこととなる。

「仮にくじ引きが偶然の強化、宇宙の内部への混沌の定期的な侵出なのであるならば、偶然がくじ引きのひとつの段階ではなく、あらゆる段階に干渉するのはむしろ好都合ではないか?偶然がある者の死を命じながら、その死の情況は偶然に従わないというのは、おかしくはないか?」

「まず、一回目のくじ引きを想像してみよう。それは一人の男の死を宣告する。その遂行の為に、さらにもう一度くじ引きがが行われ、これが(たとえば)九人の死刑執行者を挙げたとする。これらの執行者のうち、四名が死刑執行人の名前を教える三回目のくじ引きを行ってもよい。……これが象徴的な大要である。現実にはいかなる決定も最終的ではなく、すべてが別の決定へと分岐してゆく。…」

皮肉なことに、「ささやかな冒険」として生み出された金銭を賭けた娯楽が、大衆の生活そして国家のシステムをも変革させていき、いつしか史実すらも捻じ曲げてしまう。くじ引きの権威と重要性が増すにつれて、くじそれ自体とそのシステムを管理し運営する「講社」の存在はより曖昧になってゆく。そして、最後にはこれら講社の存在をはじめとするバビロニアの史実すらも曖昧で偶然の産物に過ぎないかもしれない、というなんとも皮肉な終わり方をする。


ボルヘスの「伝奇集」には今回取り上げた「バビロニアのくじ」に加えて、17の短編作品が収録されており「バベルの図書館」や「円環の廃墟」などの名高い作品も収録されている。私はその中で敢えてこの「バビロニアのくじ」を取り上げた理由は二つある。

第一には冒頭に論じた偶然性というものの議論の面白さにある。確かに、我々の人生そのものは偶然に満ちており今行っているこの思考すらもただの偶然の重なりに過ぎないかもしれない。今まで積み上げてきたものも全てが自分の努力ではなくただ運が良かっただけで何一つ自分の力ではなかったのかもしれない。(一方ですべてが始まる前から決まっており、偶然など何一つないという宿命論というものもあるが、居心地のよい議論ではないことは確かである。)

しかしその一方で文明の高度化が進めば進むほど我々は自然の一部であるということを忘れてしまう。せめて自分がまだ実は自然の一部であると自覚するのは食と排泄くらいに限られてしまっているのではないだろうか。しかしながら、一度この偶然性というところに想いを廻らせば、人類同士の優劣などすべて平準化され、自分にも宇宙と同じように法則が適応されていることを考えることができる。ここに我々人間が「偶然性の強化」というところに魅力を感じる理由の一つがあるかもしれない。


そして、第二には人間の愚かさでもあり知性の象徴でもある、社会システムを生み出す上での人類特有の性質が如実に表現されていたことにある。

あらすじに戻って考えてみると、くじとはあくまで人類が生み出したものであるにも関わらず、いつの間にかそのシステムそのものがバビロニアの人のあり方や個々人の人生を規定するようになり、国家権力すらをも握るようになる。誰にもその偶然性から脱却でき得る者はいない。そして、このシステムが成熟するに連れてそのものを司る支配機構の存在すらも曖昧になってゆくのである。

この構図は、宗教や金におもしろいほど綺麗に符合する。神や金は人類がその利便性や精神性故に生み出したものである。ここに人間のみがもつ知性を垣間見ることができることも事実である。しかしながら、同時にそのコントロールができなくなってしまっていることも事実である。この地上に誰一人として、イスラム教ユダヤ教キリスト教の三者を和解させることができる者も、為替を意のままに操ることができる者も存在しない。そして全世界の神や金銭を支配する機構というものも曖昧であることは言うまでもない。「バビロニアのくじ」にて、バビロニア人自身が生み出した「くじ」というシステムがいつの間にかバビロニア人自身を罰金にはじまり投獄や、死刑までも宣告できるほどの威力を持つようになるプロセスは、宗教における異端尋問や魔女狩り(現在もタンザニアでは魔女狩りが行われている。)やマネーゲームに負けた者の末路などに酷似する点がある。我々人間は自分の手で生み出したものに飲み込まれつつあるのである。

この「自分自身の手で生み出したものが支配できなくなる」という現状を考える為には、なにもSF映画にでてくるアンドロイドのクーデターのようなものを引き合いに出す必要などない。すでに我々はその中に飲み込まれているのだから。しかしながら、愚かなことに2045年問題に危機感を持つ者は居ても、宗教や金銭のコントロールを失った現代のあり方に危機感を持つ者は少ない。「バビロニアのくじ」に登場した衆愚的なバビロニア人の思慮の浅さに閉口する我々も同じような現状にいるということ胸に刻むべきであろう。


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